常 世  


気がつくと、征士は無風の川岸にたたずんでいた。

先のまったく見えない濃い霧が立ち込めており、視界が良いとはいえない。
川向こうにある背の高い灰青色の影が、かろうじて木だと分かる程度だ。
足元を浅い川が流れているが、水音はしない。

音など存在しないように思える、静寂の世界。


――ここはどこなのであろう


ふと思いついて膝を折り、川面を覗けば…数十年の時間を遡った青年の姿の自分がそこにいた。


それで、征士は予想していたことを確証に変える。
ここで、己のすべきことは判っている。
ただ待つだけ。

待つ以外にすることのない征士は、再び立ち上がり。
不思議な世界の景色をぐるりと見回してみる。
背後に道はなく、川向うと同じように霧の中に木の影だけがあった。



と。 突然、ざぁと強い風が吹き。
立ち込めていた霧が、一瞬にして払われた。

モノクロのベールを取り払われた木々は、本来の色を取り戻し。
生き生きとした緑をたたえて、輝きはじめる。
あまりの色彩の差に征士が呆然と見惚れていると、後ろから声をかけられた。


「待ってたよ」


懐かしい声。
紫瞳に早くその姿を取り込もうと、急ぎ振り返る。
そこに立っているのは、羽柴当麻。


「ずいぶんと待たせたか?」  


征士が訊ねると、当麻は嬉しそうに笑いながら軽く首を横に振った。


「こっちでの時の流れは緩やかだから、長くは感じなったな。 でも逢いたかったよ」

「私もだ。約束が守れて――本当に良かった」


久しぶりに逢った当麻に見惚れていると、彼から行く先を導くための手が差し出された。
その手をそうっと取る。
――あたたかい
ずいぶんと前に、触れたことのある当麻の手、そして指。

嬉しくなり、握った指先に力を少し入れると、今とは異なる酷く熱かった昔のそれを思い出した。




◆◆◆  


あれは、大学を卒業した春。
既に働いている遼達が、征士と当麻の卒業兼就職祝いをしようと言ってくれて、東京に集まった時のことだ。
その夜は久しぶりに五人で飲んで、楽しい時間を過ごした。
大学も就職先も仙台である征士は、こんな機会でもなければなかなか上京もしないし、皆にも会えないのだ。
四月になれば、社会人としての生活が始まる。
今までは年に一度でも会えればいい方であったが、これからはそれさえも難しくなるかもしれない。
生死をかけて戦った強い絆を持つ仲間との時間が少なくなるのは、寂しいことだ。
だが一方で、安堵する気持ちもあるのだから、征士の胸の内は複雑だ。 
安堵する理由とは――当麻に逢わないで済むからだ。

何時の頃からかは曖昧だったが、征士は自分が当麻に特別な感情を持っていることに気づいてしまった。
しかも何となくではあるが、当麻も自分を同じように大切に想っていてくれることを感じ取ってしまった。
だからといってこの想いは叶えることなどできる筈もなく、口に出せないままでいた。
いや、寧ろ口に出さないでいいように、意識しないで済むように、彼を避けて進学も就職も地元を選んだ。
同性同士であるだけでなく、征士の肩には家督の重責がある。
どうしようにもない現実の中で、当麻との関係を進める事など考えられない。
だから、こうした集まりの時も、意識して当麻に近づき過ぎないように用心していた。
それさえ気をつけていれば、本当に楽しめるのだから。

それで過ぎていくはずだった。

宴がお開きになって店を出ると、三月にしては冷たすぎる風が強く吹いていた。
征士は肩をすくめながらも、秀と遼の後にゆっくりとついて歩き、繁華街の中を駅の方へと向かう。
飲む前は暖かかったのに…とほろ酔い気分で考えていると、頭上の空がゴロゴロと鳴りはじめた。

春雷。

雨が降る前に地下鉄に急ごうと伸が声をかけてきた時、ザーと大きな音を立てて大粒の雨が落ちてきた。
とたんに前を早歩きをしていた仲間の姿がけぶって見えなくなる。
目の前に分厚い冷たいカーテンが降りてきた。
すると。いきなり、左手を後ろに強く引かれた。
振り返ると、自分と同じようにずぶ濡れになっている当麻がいる。

「雨宿りをしていこう」  

強い雨音の中で、その声は妙にハッキリと耳に届き。
駅とは逆方向に引っ張られた。

引かれるままに、どこかのビジネスホテルに入ったが…。
ずっと無言の当麻に声をかけることも出来ない。
エレベーターに乗り、何の個性もないドアの中に入る。
その間、ずっと征士の腕は掴まれたままだった。

当麻に連れ込まれるようにして部屋に足を踏み入れると――ドアが閉まる。
二人だけの空間になると、すぐに抱きしめられ。
性急で強すぎる抱擁に、息が止まる。
何か言うべきだろうと考えていた言葉は、口づけをされ全て飛んでしまった。

後はもう、駄目だった。
空けていたはずの距離も、抑えていたはずの好意も、
腹の底に抑えていた当麻への欲情も。
自制の全てがなくなってしまった。
理性という重い蓋は、一度激しい情動で外れてしまえば役目を成さなくなる。
もう、勢いよくあふれる想いを止められない。
あとは、本心の望むまま。
人間に残る四つ足で生きていた時から持つ本能と、それを更に掻き立てる愛情だけで当麻と触れ合う。
雨に濡れて冷たい服を取りさり、直接肌を温めあう。
抱き合ったままベッドに倒れ込むと、一瞬離れた唇がすぐに戻ってきて、舌を濡らす。
当麻の手も、自分の手も、何かを求めるように落ち着きもなく互いの肌の上を触れ歩く。
手のひらの皮膚を通して感じる彼の体温が嬉しくて、どうすればいいか分からない。
当麻の指先が首から胸へと滑ってその後を唇が追い掛けるのを、息を殺して感じている。
そして、彼の手は更に下肢へと降りていく―その明確な意志は、これからどうするのか、どうすれば一番深くつながれるのかを知っていた。身体だけでなくその想いの距離が、最も縮まる方法を。
そして、征士もそうなることを願っていた――。  

「うぅ」と強い圧迫に喉から声が漏れる。
傷となる痛みではないが、未知の強い突き上げから感じさせられる苦しさに、呼吸ができなくなる。
慣れるまで続けられていた指での愛撫は優しかった。
それでも、キツイ。
早く…交わりたいと焦る当麻の思いは伝わってきていた。
だから、どんなに苦しくても、目を瞑って耐え受け入れる。
熱い当麻の存在を内側から感じて、胸が痛む。涙がこぼれる。
欲している当麻がこんなにも近くにあるということに、言葉にならない。
極まって目尻から流れ落ちる涙。
その涙を吸う唇が「痛くても止められない…ごめんな」と切羽詰まった声で囁く。
征士自身が望んでいることだというのに、思いやってくれる当麻の気持ちが、更に胸を熱くする。
「痛むのはここだけだ」と、挿入の衝撃に耐えるために瞑っていた目を開けて、真上にいる当麻を見つめ。
その腕にしがみついていた右手を自分の心臓に置いた。

「だから…大丈夫だ…」

ゆっくり息を吐き出し、不自然に力んでいる身体を緩めようと努力する。
必要以上に意識してしまう自分の中にある存在を感じて、ひどく嬉しい気持ちに煽られる。
「嗚呼…当麻」と感極まって呼ぶと。応えるように青い視線に射抜かれ、貫いている当麻が動き始める。  

今、何をしているのかは理解している。
万分の一も無かったほどの稀少な時間を手にしているのだ。
こんな時間を持てるとは思っていなかった。出会ってから長い時間を過ごす内に芽生えた感情。
想いは確かなものだったが、伝える気はなかった。
だから、当麻との関係が変わることはないと思っていた。
以前……何かの拍子に友としては有り得ない眼差しを向けたことがあった。
敏い当麻に気づかれ、己の油断と過信を恥じた。
だがその時、『しまった』という顔をしたのは自分だけではなかったのだ。
想う人が同じ後悔をしていた。
ほんの数秒、視線が合致しただけで、己だけではなかったのだと理解できてしまった。
それでも、どちらからもこの想いを口に出すことはなかった。
先に進むのは互いを取り巻く環境が許さない。
征士が家の跡目から逃れられないように、当麻もまた必要とされている世界がある。
進むは地獄。
征士の場合は己だけではない、伊達の家が絡むのだから事が大きくなるのは必然。
それに当麻を巻き込むことは出来なかった。
だから、想いを遂げられない状況を、受け入れていた。
納得していた。
諦めていた。

それなのに。
いざ、肌を交えてしまえば、歓喜以外の何者も生まれないのだ。
わざめき息苦しいまでの感情が、むくむくと芽生えわき上がる快感で包まれはじめる。
――あぁ…気持ち良くなど…なりたくはない  
もっとしっかりと、当麻を感じていたかった。なのに、目を開けていられないほどの痺れが、背筋を遡る。
じわじわと広がる快楽は止め処なく広がり、爪の先の細胞までもが犯され、何も考えられなり分からなくなっていく。
昂る感情の行き場がなく、もっととキスをねだれば、すぐに応えられる。
するとキツク感じていた身体は更にとろりと溶けて、ただただ当麻から与えられる甘さに蕩けて形がなくなっていく。
「当麻…とうま」と名を呼ぶ声が嬌声と共に上がり続け。
得体の知れない感覚に翻弄される、恐怖の混じった悦楽に溺れ堕ちながら。
幾度も交わり達し、意識が無くなるまで当麻という熱の塊に抱かれていた――。







明け方、まだ陽の昇らない薄闇。
目を覚ますと、真剣な表情の当麻に見つめられていた。
既に着替えてしまっている彼の服に手を伸ばせば、まだ乾き切っていない。
それが証拠だった。

確かに―欲望と愛着と離別の窮愁が混じり合い、もがくように抱き合った。
夢ではなかった。ずっと名前を呼びながら、愛しみあったのだ。

「俺が何を言いたいか分かる?」

昨夜のことを思い出していた征士は、当麻の声に引き戻される。
表情は硬いが、そこに後悔などは浮かんでいなかった。

「いや……分からん」  

堪えきれずに一線を越えたが、各々の生き方も果たさなければならない役目も痛い程に分かりきっていた。
先など望めない関係。当麻も分かっているはず。
だから、征士は本当に彼が何を言いたいのか分からなかった。

「征士を苦しめたくないんだ。だから、約束しよう。今世ではもうこれ以上はいいから。この世のしがらみが無くなったら、俺といてくれよ」
「生まれ変わったら、というやつか」
「違う。生まれ変わるまで待てない。だから、お互いの役目が終わったら、寿命が成ったら、あっちの世界で待ってる」
「……分かった。約束しよう」  

征士の答えを聞くと、当麻の口元が少しだけ笑みを作った。

「未練になるから先に出る。お前が先だと追いかけかねないから…じゃぁな」

そう言うと、当麻はひとり、風のように部屋から出ていった。
それが当麻との別れだった。



以降、彼に逢うことはなかった。
その時のことは、征士の何物にも代えがたい大切な記憶。
誰にも知られるこのないまま、秘していた願望。

現世(うつしよ)が無理ならば。
常世(とこよ)でともにあろうと、誓い合った。

ただ、それだけ願っていた。
現世では叶わなかった共にある時間を過ごすために。
来世の約束など不確かなものではなく。
誰もが訪れ、受け入れられる世界での待ち合せ。


あの日からずいぶんと時が流れたが、征士は当麻との約束を忘れたことなど無かった。





◆◆◆  



そして、今。
しがらみはなくなり。やっと望みが叶えられた。


春雷の日のような性急さはなく、ゆっくりと当麻が前を歩く。
上流に向かう彼に手をひかれて、川の中の飛び石を踏み、対岸へと渡って行く。
穏やかな浅い川を渡り終わると、やっと素直に言葉に出していいような気がした。


「当麻、もう離れたくはない。ずっと…ずっと共にいよう」

「もちろん」  


振り返って笑う当麻が、愛おしくてたまらない。

明るい光の中を歩きながら。約束を果たせたことと、想いが遂げられることで、心が満たされていく。
自然と目元も口元も綻ぶ。


やっと、自分の、自分達の望むままに、生きることができるのだ。

喜びが伝わり、繋いでいる手の指に不自然な力が入ってしまう。

すると同じような力で、握り返された

――もう離れないと固く握りあう。


そして。

ずっと続く優しい時間を思い。

互いに目を見合わせて、もう一度笑うのだった。          


(了)



初めての人に 

   手を引かれ渡るというその川は


              世の境界に流れている



                          



死にネタが苦手で書けない私ですが、
死んじゃった後ならハッピーエンドでいけるんじゃないかという挑戦w
しかも、初めての人が迎えに来てくれるという///ぎゃー ←私的な萌えポイント☆

去年の10月スパークで無配させていただいたお話です^^

2017.02.28

kazemiya kaori



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